My Fulbright Story

No.3 Nakazawa Kaoru

Making a Difference in Paralympic Sports

NYU剣道部

あらゆる段差や仕切りがない広々としたフロア、車いす使用者が届くコピー機や衣類かけ——。2015年に東京・赤坂に開設された、パラスポーツの普及や競技団体の支援をする「日本財団パラリンピックサポートセンター」が、今の職場だ。

小さい頃からスポーツ少女だった。「男の子と一緒にできる競技がしたい」と、小学1年で剣道を始めた。スポーツ新聞を愛読し、高校生の時は週末ボランティアでJリーグの試合のスタッフをした。「スポーツは心身を健全に保つだけでなく、仲間たちと一喜一憂を分かち合う場を与えてくれる。その一体感、高揚感がたまらない」

2004年、早稲田大学スポーツ科学部に進学。その頃、世間を騒がしていたのがプロ野球の球団再編問題だった。一方、大学3年の夏にインターンとして働いた米大リーグ(MLB)は、営業、経理、広報などそれぞれの部署にその道のプロがいて、経営は盤石だった。「日本は母体企業の経営が悪化するとすぐに球団に影響する。日米の差を感じた」

卒業後、IT企業で4年半働き「米国でスポーツ経営を学びたい」と、27歳で退職した。フルブライト奨学金に応募するものの、受かる自信はなかった。「ノーベル賞候補者とか高学歴の人しか選ばれないと思っていた。私はスポーツばかりであまり勉強しなかったから」と苦笑する。しかし他国のフルブライターと知り合い、フルブライトへのイメージが変わった。「皆、自分の好きなこと、やるべきことがはっきり分かっていて、強い情熱を持っている。単に学歴が高いのではなく、一緒にいると前向きになれる人たちばかりだった」

留学準備中、その後の進路を決定づける出来事が起こった。五輪、パラリンピックの東京招致だ。また、偶然日本のパラスポーツの選手たちと交流する機会があった。「自分の中にどこかで、彼らに対して『大変』『かわいそう』というおこがましい思いがあった。でも、実際に知り合ってみると、明るく、たくましく、コミュニケーション能力も高い。こういう優秀で魅力的な人材が、もっと前に出て活躍できる社会をつくりたいと思った」

帰国後、求人をしていなかった今の職場に履歴書を送り、自分を売り込んだ。すぐに採用が決まり、今はイベントの企画、運営などの業務を担っている。

胸に秘めるのは、あるパラスポーツ選手の言葉だ。「障害は disability(障害)ではなく、different ability(違った能力)」

そんな意識が、2020年までに日本社会に広がるのが目標だ。