フルブライト・ジャパンについて
J.ウィリアム・フルブライト上院議員について
J.ウィリアム・フルブライト上院議員(1905年~1995年)
ジェームズ・ウィリアム・フルブライト氏は1905年4月9日ミズーリー州サムナーに生まれ、幼年時代をアーカンソー州フェイエットビルで過ごす。1925年にアーカンソー大学・政治科学学部を卒業後、オックスフォード大学ペンブローク校へローズ・スカラーシップで3年間留学し、学士号と修士号を取得した。米国に帰国後、ジョージ・ワシントン大学院で法律を学び、1934年に卒業。卒業後、同大学院で法学部講師、司法省で独占禁止法担当特別検事を務めた。1936年、アーカンソー州に戻り、アーカンソー大学で教鞭を取り、1939年にアーカンソー大学長に就任。
1942年アーカンソー州第三区より連邦議会の下院議員に初当選。国際的な集団安全保障機構、平和維持機構の創設を支持し、後に国際連合となるその機関にアメリカが参加することを提案する、いわゆるフルブライト決議案を1943年に提出し、可決された。このことにより全国的な知名度を得た同氏は、1944年に上院議員に当選し、1974年末まで上院議員を務めた。
諸国民の間での人物交流による相互理解が悲惨な戦争勃発を防げる、との強い信念から、フルブライト氏は1945年9月にアメリカと世界各国との教育交流計画を議会に提出し、1946年8月に批准された(フルブライト法と呼ばれる)。1961年、フルブライト法を拡大・近代化したフルブライト・ヘイズ法が採択され、このプログラムにより現在160カ国以上が参加し、これまでに世界中で約40万人が恩恵を受けてきた。
銀行通貨小委員会委員長、財務委員会、および両院合同経済委員会のメンバー等を歴任後、1959年に外交委員会委員長に就任。15年という歴代の誰よりも長い任期の委員長を務め、米国の国際情勢に熱心に取り組んだ。1961年、ピッグス湾事件の際には当時のケネディ政権の姿勢を批判し、キューバへの介入に反対。また、トンキン湾事件後の、より本格的なベトナム介入を認めるトンキン湾決議には賛成したものの、ベトナム戦争が泥沼化するにつれて反戦へと転じ、外交におけるウィルソン主義や道徳的アプローチの正統的な継承者でありリベラル派であった。
このような行動から、アメリカ史に「Fulbright, the Dissenter」(反対者)と名を残し政界を退職後、1975年3月より、ワシントンDCの「ホーガン&ハートソン」法律事務所に最高顧問に就任。数々の賞を受章し、日本では1975年に勲一等旭日大綬章を受章、1982年に早稲田大学から名誉法学博士学位が授与された。
生涯を世界平和の促進に貢献したフルブライト氏は、1995年2月9日、家族が見守る中、自宅で静かに永眠した。