写し絵のデモンストレーション
フルブライトストーリー
No.22 ニーナ・ホリサキ=クリステンズ
書庫から街へ踏み出して見つけた、日本のメディアアートの記録と記憶
日本美術史の研究者、ニーナ・ホリサキ=クリステンズさん。自分の研究テーマについてたくさんの疑問、質問を抱えてきたが、東京の上智大学の客員研究員として、ついに来日の機会を得た。
「1970年代の日本のビデオ、特に美術史関連のものを研究しています。ビデオというメディウム(媒体)をアーティストたちがどのように使っていたのか、『ビデオ』という用語がどのように使われるようになったのか、といったことです。この用語が使われるようになったのは1970年代の初めですが、ビデオという技術自体は1960年代後半までには存在していて、一部のアーティストはその当時既にビデオを使っていました。70年代になって用語が使われるようになったのには、恐らく何か理由があったのでしょう」。特に興味を持っているのは、ビデオひろばと呼ばれるアーティストグループだ。日本のアートシーンにおいて表現が大きなトレンドとされていた当時、そのグループはビデオを表現の道具ではなく、コミュニケーションの道具として使っていた。
来日当初、研究を始めたばかりの頃は、図書館や美術館で研究に関する資料を探す時間が楽しかったという。「日本に来る前、私はこのグループに関する資料はほんのわずかしか持っていませんでした。それがつらくて、とにかく資料を入手したかったんです」。しかし研究開始から約2ヶ月が過ぎた頃には、今何をするべきなのか、自分の中で優先順位が変わってきていると気がついた。「美術館に収蔵されていない資料も多いということ、外に出て、ただ人と会うことがとても大切だということに気づきました」
現代美術に関する様々なイベントで、ビデオひろばの研究をしていると自己紹介すると、その場で会ったばかりの人から「うちの教授がそのグループのメンバーと一緒に仕事していました!」と驚かれたり、グループに関する資料を保有していると教えてもらえたりもした。「たくさんの人たちと繋がりを持ちましたが、その人達が将来私を助けてくれることになるとは、当時は思いもしませんでした」と嬉しそうに振り返る。
日本にいる間に起きた大きな変化は、研究に関係することばかりではなかった。アメリカを出て暫くして、自身の妊娠に気づいたのだ。自分は研究で忙しく、同伴して来た夫は日本人ではあったが、日本を長く離れていたため、新しくネットワークを作る必要があって同じく多忙だった。生まれたばかりの男の子の世話を誰に頼むか、夫妻は頭を悩ませた。「当時住んでいた北区で保育園の利用申請を出したのですが、区役所から来た手紙では、保育の必要な家庭だという認定は得られたものの、0歳児の定員は北区全体で1つしか空きがないと書いてあったのです!」日本の乳幼児の母親たちを大いに悩ませる「保活(保育園探し)」の苦労の一端を味わうことになったのだ。しかし幸い、ボランティアのベビーシッターが何人か、また、新年度が始まって空きが出るのを待つ間、何日か一時利用ができる保育施設も見つかった。
フルブライトの良い点の1つは、地元の人と繋がりを持てることだという。「ニューヨークで研究している時、私は仕事一筋で、同じ種類の仕事をしている人としか交流を持っていませんでした。でも、日本に来て、自分とは違うバックグラウンドの人たちと繋がることができました。研究は大切ですし、フルブライターが日本に来るのもその為ですが、あまりに研究ばかりに注力していると、人と知り合うために一息つくことが難しくなります。人に会うことで、自分の取り組んでいる研究に対する見方も変化するかもしれません。オープンに、前向きでいることです。人々はいろんな方法で、あなたを助けてくれるのですから」