フルブライトストーリー

No.33 チェルシー・ハドソン

北海道石狩市にある「はまなすの丘公園」を通る遊歩道。海岸まで真っ赤に咲く「はまなす」が公園の名前の由来となっています。
はまなすは、私自身の故郷(ロングアイランド)の近くの砂丘でよく見る花なので、公園を訪れる度に故郷を思い出しました。

勇気を出して踏み出した先で見たものは? 研究者として、人間として一回り大きくなれた1年間

雨の後、丸山の頂上からのパノラマビュー。丸山は、札幌の中心部にあり、保護された森林に囲まれています。元のアイヌ名は「モイワ(小さな山)」で、南に位置する「藻岩山」とは異なります。
市の北部にあるモエレ沼公園で咲いていた桜。埋め立て地に建てられたモエレ沼と記念碑のデザインは、1988年に日系アメリカ人アーティストであるイサム・ノグチが亡くなる前に手掛けた最後のプロジェクトでした。ここは私のお気に入りの場所の一つで、時間がある時はここを訪れていました。
中島公園の入り口近くに札幌在住の彫刻家小野健壽先生の作品「のびゆく子等」(1976年)が設置されています。太平洋戦争終結後、公園は樺太からの引揚者のための住宅街となりました。子供たちが空に向かって手を伸ばすという希望に満ちた姿は、戦争の傷跡からこの公園と札幌市が立ち直ったことを象徴しています。

2018年、Georgetown University の大学院生として、日本の先住民族であるアイヌ民族の歴史を調査するために北海道を訪れた。北海道大学の「アイヌ・先住民研究センター」を留学先として選び、同大学の「スラブ・ユーラシア研究センター」からも研究の支援を受けた。

「私のテーマは、19世紀末から20世紀中盤にかけて北海道やサハリン、千島列島に住んでいたアイヌの人たちの生活が、当時の日本とロシアとの領土拡大競争の中でどのような影響を受けていたのかについてです。札幌市のほか、江別市、旭川市、函館市、東京都でも、開拓使の資料や新聞、アイヌの方々と支援者の方々が1920年から30年ごろに発行していた情報誌などを収集しました」。大日本帝国および帝政ロシアの時代、両国に残るアイヌ民族の人口記録などから、それぞれの国が自国に編入させたアイヌの人口をどのように管理したのか、アイヌを自国の法制度や社会制度にどのように取り込もうとしたのか、更にアイヌ自身が人口管理や強制移住にどのように対応したかも調査した。

北海道大学の教員や同級生、研究の途上で訪ねた旭川市文学資料館のボランティア、北海道立文書館のスタッフ、函館市中央図書館の職員らから、資料を見つけられるかもしれないアーカイブについて教えてもらえたと嬉しそうに振り返る。「自分だけで探していたら、その資料には出会えなかったと思います。本当に感謝しています」

研究を進める傍らで、北海道大学の学生による混声合唱団に参加し、冬季の定期演奏会にも出演した。20歳前後の学部学生を中心とした合唱団で、大学院生はわずかだったが、自分より10歳近くも年下の学部生たちが、教職員に頼らず自分たちで団を運営していることに驚かされたという。「アメリカの大学にも合唱団はありますが、多くの場合は教職員が団の指導にあたります。北大の合唱団では、運営も指揮も全て学生主体でした。練習や衣装合わせが全て終わってついに迎えた本番のステージで、それまでの成果を全部出し切るように声を上げて歌えたことは最高の思い出です。演奏会に出演し、団を通じてたくさんの人と出会えたことで、私自身も人として成長できたように思います」

北海道各地を旅行したことも良い思い出だ。「フルブライターとして訪日する5年前、2014年に函館でホームステイをしたことがあります。その当時は知らない場所へ旅行することはとても不安で、いつもホストファミリーと一緒でした。でも今回の札幌滞在では、もっと勇気を出そうと思い、自分一人でどんどん遠くへ行ってみることにしたのです」

聴覚に障害があることもあり、新しい場所へ出かけるにあたっては、聴こえないことへの不安も大きかった。しかし、旅の途中で会った現地の人々は皆親切で、ありのままの自分を辛抱強く、また理解と敬意を持って受け止めてくれた。現地の人々と話をして、北海道民の暮らしやアイヌの暮らしについてより身近に知れただけでなく、一人の研究者としても、人間としても、異文化の中で新たな居場所を見つけた気持ちになれたという。

そんな経験を経て、新たな場所へ行き新たな人々と出会う時には、相手をありのまま受け止める、おおらかな心が大切なのだと気がついた。「新しい環境に飛び込もうとするとき、日本や北海道がどんなところなのか、日本人やアイヌがどんな人たちなのかとあれこれ先入観を持っても意味がないのだと知りました。ひとつひとつの経験を受け入れ、ありのままの彼らを尊重できればそれでいいのです」

そんな経験から、将来のフルブライターには勇気を持って、一人で何でもやってみることを勧めている。「私の一番大切な思い出のひとつは、研究でもなんでもなく、一人で札幌市内や道内のいろいろなところに出かけた、探索したというただそれだけのことなのです」

実り多かった2度目の日本滞在を、最後にこう振り返った。「世界の情勢は今、あまり良いとは言えないのかもしれません。しかし、日本で現地の人たちと触れ合いながら活動して、フルブライターはアメリカ人の良いイメージ、たとえば親切さや、オープンさ、他人を受け入れる姿勢などを世界に伝える存在になり得ると気がつきました。これからもこの交流が更に広がることを願っています」